築地市場築地市場






築地市場築地市場






築地市場築地市場






昨日は築地市場に行った。「朝、早く行かないとダメだよ」とは聞いてはいたが、到着したのは8:30頃。セリが終わったこの時間帯は、年末の買出しに訪れた一般客で賑わっていた。市場内には仲卸業者がずらーっと並んでいて、端から端まで歩くと30分以上かかるくらいに広い。どのくらい店があるのかと調べてみたら、水産仲卸で796。立ち止まって魚を見ようものなら、「安くするからかってきなー」なんて声がかかる。で、狭い通路には通称ターレ、正式にはターレットトラックという電気運搬車がかなりの勢いで走るので、ぼやぼやしていると轢かれそうだ。

ちなみにこのターレットトラックは朝霞製作所の登録商標とのことだが、ほかのメーカーでも製造している。とくにニチユ(日本輸送機)台湾の炭鉱でも目にしたメーカー。こんなところでも活躍していたのか。

ラジオ「よろず旅行研究所」(FM湘南ナパサ)の中継を終え、ごはんを食べたのは、場内の「魚がし横丁8号館」にある大江戸食堂という店。うに・いくら・中トロののったG上丼は1,650円。ネタが大きくて美味しいのだが、市場隣接でも値段はそれなり。営業/4:30〜13:30、日曜・祝日の休市日は休み。

築地市場というのは水産物部仲卸業者売場、青果部仲卸売場、物販・飲食の魚河岸横丁からなり、東京都の施設だという。それに対して、いわゆる「築地場外」は私設市場とのこと。場外のほうが値段はちょっと高めだが、ひと通りの店が揃っているので買い物はしやすいのかも。テリー伊藤の実家の玉子焼き屋「丸武」があるのもこちら。

◆「ザ・築地市場」ホームページ(社団法人築地市場協会)
◆「築地グルメ」ホームページ(魚がし横丁)
◆「築地魚河岸」ホームページ(築地場外市場)

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波除稲荷神社波除稲荷神社

今から350年程前、この築地一帯は一面の海でした。
江戸開府(1603)の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀の辺りまで汐入を描き、八重洲の海岸に船の役所が見えます。
開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られたお堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始められた、江戸東南海埋立はその後全国の諸侯70家に千石に1人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり尾張町、加賀町等と名付けられました。
そして70年の後、明暦の大火の後に4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事困難を極めたのが、この築地海面でした。
堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。
或夜のこと、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神のご神体でした。
皆は畏れ、早速現在の地に社殿を作りお祀りし、皆で盛大なお祭りをしました。ところがそれからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致しました。萬治2年(1659)の事です。
人々は、その御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神に「波除」の尊称を奉り、また雲を従える<龍>、風を従える<虎>、一声で万物を威伏させる<獅子>の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼「つきじ獅子祭」の始まりです。
それ以来、今に至るまで「災難を除き、波を乗り切る」波除稲荷様として災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚いのであります。その御神徳はその後も益々大きく、当時辺境の地であった築地も次第次第に開け現在の如く繁華街となったのであります。

波除稲荷神社-獅子殿波除稲荷神社-お歯黒獅子






(波除稲荷神社・現地看板より)

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魚河岸水神社魚河岸水神社

「水神社」の歴史は古く、天正18年(1590)徳川家康公の江戸入府とともに移住してきた日本橋魚市場の開祖・森孫右衛門ら摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命」を祀った「大市場交易神」がその始まりといわれています。
明治34年には神田明神の境内に「水神社」本殿が建立され、日本橋魚市場は関東大震災以後に移転し、現在地に遥拝所が建立されました。
以来、築地魚市場の守護神として「水神さま」とお呼びし、魚河岸会の人々の篤い崇敬によって大切に守られています。
この場所は、江戸時代は松平定信公庭園跡で、明治維新後は海軍用地となり、境内にある「旗山」の碑は、日本海軍発祥の地のゆかりを記す貴重な史跡です。
(魚河岸水神社・現地看板より)